アマチュアスポーツにおける「感動」の概念は、しばしば政治家、マスメディア、スポーツ企業、学校などの利害関係者によって強調される。しかし、一般の観客は必ずしもそのような感動を求めているわけではない。
利害関係者がアマチュアスポーツに感動を求める背景には、複数の要因が考えられる。政治家にとっては、スポーツの成功が国民の団結や愛国心を高める手段となり得る。マスメディアは、感動的な物語を通じて視聴率や購読者数の向上を図る。スポンサー企業は、感動的な瞬間と自社ブランドを結びつけることで、ポジティブなイメージ構築を目指す。学校や教育機関は、スポーツを通じた人格形成や教育的価値を強調するために感動を利用することがある。
一方で、一般の観客の多くは、単純に競技そのものを楽しむことや、アスリートのパフォーマンスに注目していることが多いだろう。彼らにとって、スポーツは娯楽や気晴らしの一形態であり、必ずしも深い感動や教訓を求めているわけではない。この観点から見ると、感動の押し付けは、時として観客の純粋なスポーツ観戦体験を歪める可能性がある。
オリンピックは、この現象が最も顕著に表れる事例の一つだ。オリンピックは、アマチュアリズムの精神を掲げながら、同時に巨大な商業的・政治的イベントとしての側面も持ち合わせている。
例えば、オリンピックの開会式や閉会式では、しばしば開催国の文化や歴史、人類の団結といったテーマが強調される。これらのセレモニーは、政治家や組織委員会によって、国家の威信を示す機会として利用されることがある。同時に、これらの式典は、スポンサー企業にとって世界中の視聴者に向けて自社ブランドを露出させる絶好の機会となっている。
メディアの報道においても、選手の個人的な苦難や克服のストーリーが大きく取り上げられることが多々ある。これらの人間ドラマは、視聴者の感情に訴えかけ、視聴率の向上につながる。しかし、こうした報道が、時として競技そのものの技術的側面や戦略的な面白さを覆い隠してしまうこともある。
また、オリンピックに参加する選手たちも、単なるアスリートとしてだけでなく、国家の代表や理想の体現者としての役割を期待されることがある。彼らの勝利や敗北は、しばしば国家の誇りや挫折と結びつけられ、個人の競技成績以上の意味を持たされることがある。
このように、アマチュアスポーツ、特にオリンピックにおける感動の概念は、様々な利害関係者によって強調され、利用されている。しかし、この過度な感動の押し付けは、スポーツの本質的な魅力を損なう可能性がある。真のスポーツの価値は、競技そのものの魅力や選手たちの純粋な努力にあり、それを尊重することが重要ではないだろうか。