運はコントロールできない

近年、一部の学者たちが「運はコントロールできる」という主張を展開し始めている。この考えを広めようとする動きが出てきているが、これには大きな問題がある。

科学的開運法の誤り

人々は古くから、様々な方法で運を良くしようと試みてきた。玄関の掃除をしたり、特定の方角に黄色いものを置いたり、神社やお寺で賽銭を投げ入れて柏手を打ったりする。これらの行為には科学的な根拠はないものの、それ自体は特に問題ではない。むしろ、このような縁起物や慣習を信じることで、人生における不安や不確実性に対処できるのであれば、それは1つの有効な方法と言える。

しかし、学者たちが「運を良くするための科学的方法がある」と主張し始めたことは、大きな問題をはらんでいる。彼らの言う「運の良さ」とは、実際には適切な思考方法や行動様式を身につけることで、対人関係をスムーズにするというものに過ぎない。これは明らかに「運」ではなく、「処世術」と呼ぶべきものである。

運の本質とは

運とは、人間の意思や努力とは無関係に作用する力である。例えば、どれほど善良な人であっても、突然の災害や事故に遭遇することがある。逆に、他者に対して悪事を働いた人が宝くじに当選して大金を手にすることもある。これこそが運の本質であり、人智を超えた偶然性にこそ、運という言葉の真の意味がある。

このように、運は人間の制御を超えた領域に存在する概念であり、それを科学的にコントロールできるという主張は、運の本質的な性質を見誤っていると言わざるを得ない。運を科学的に制御しようとする試みは、運という概念そのものと矛盾するのである。

主張の背後にある意図

なぜ彼らは単なる処世術を「科学的な開運法」として提示しようとするのだろうか。これは、古くから存在する対人関係の知恵や社会的スキルに「科学的」という新しいラベルを貼り付け、金銭的な利益を得ようとする試みではないだろうか。

このような概念の歪曲や言葉の誤用は、人々の運に対する理解を混乱させ、むしろ有害な影響をもたらす可能性がある。運と処世術は明確に区別されるべきであり、安易な言葉の使い換えや概念の拡大解釈は避けるべきである。

さいごに

運という不確実性を受け入れることは、必ずしも人生における無力さを意味するわけではない。私たちは運と向き合いながらも、自身の努力や判断によって人生の質を高めていくことができるのである。